南郷、青春の木炭。炭焼き小屋を復活〜古舘商店
やりがいと、悲しみと
「田舎だから、田舎のまんまの良さを生かして中野を盛り上げたいんです」と、古舘篤さんは言う。視界いっぱいの山、畑、田んぼ。息を思いきり吸い込むと、新緑の香りで胸がいっぱいになった。
里山の情緒を残すこの南郷区中野地区で、篤さんは生まれ育った。高校卒業後、やりたいことが見つからずになんとなくアルバイト生活をしていたとき「仕事を手伝ってみないか」と声をかけてくれたのが、親戚の古舘和義さんだった。
南郷区役所で課長を務めていた和義さんは、地域のそば生産グループ「中野そば倶楽部」の中心人物。「中野を活性化したい」と、休耕地を借りてそば栽培を進めていた。出勤前に畑仕事をし、終業後も真っ暗になるまで畑で「かせぐ」(八戸弁で「働く」)。働きもので頼りがいがある和義さんとともに働くうちに、篤さんの心に少しずつ、変化が起きた。
「自分も、中野を元気にする手伝いがしたい。この人についていきたい」
初めて、やりたいことができた。同時に篤さんは、農作業そのものにもやりがいを感じるようになっている自分に気づく。
2011年1月には、和義さんの夢、萱ぶき屋根の水車小屋が完成。水車でそばを挽けるようになり、「次は何をやろうか?」と地域が盛り上がった。
しかし、その1ヶ月後、悲しい報せが届く。突然の事故で、和義さんがこの世を去ってしまったのだ。
農家で食っていく
和義さんを失った悲しみを乗り越えられずにいた篤さんだが、それでも春がくると、農作業が始まる。中でも大きなイベントが、田植え。手伝いに来た小学生の甥っこが、こんなことを言った。
「大きくなったら、農家になりたい」
篤さんは農業をやるようになって初めて、厳しい現実を実感していた。丹精こめて野菜やコメを作っても、驚くほど収入が少ない。10㎏のキュウリが100円、200円にしかならないこともあった。
「でもスーパーに行くと、1本で何十なん円って値段がついてる。その差の分はどこにいくんだろう」
収入にならないから、跡継ぎがいない。友だちも、地元にはほとんど残っていない。でも、甥っこの言葉を聞いて篤さんは決めた。
「農家で食っていけるようになるぞ!」
自分のためにも、後に続く子どもたちのためにも。
やっぱり、炭なんだ
篤さんが「農家で食っていく」ことを決意したとき、たまたまテレビ番組で炭焼き職人を観た。インターネットで調べると、ジュースの缶一つからでも炭はできるという。ふと、ありし日の和義さんの言葉が頭をよぎった。
「中野は田舎なのがいいとこだから、田舎の風景を生かして何かやってみたい」
そういえば昔は村の人たちが冬場、炭焼きをしていたと聞いた。田舎の風景を生かせて、農閑期の収入になるもの—。
「やっぱり、炭なんだ」
篤さんの心の中で、パズルのピースがピタリとはまった。といっても、青年一人では知識も経験もない。冬場の農家の収入源として、さかんに行われていた炭焼きだが、その技術を知る人は、今では貴重な存在だ。和義さんの父、古舘小次郎さんに頼み込み、なんとか「師匠」になってもらった。
80を越えた小次郎さんにすれば、息子が果たせなかった夢の続きを、若い篤さんに見たのかもしれない。
「青春の炭」ができるまで
こぢんまりとした炭焼き小屋の屋根と側面は、萱で覆われている。入中に入ると、3畳ほどの空間の奥に、窯。窯の入口の幅は約40㎝、奥行き7尺(約210㎝)。細長いドーム状で、古墳を思わせるかたちだ。
この窯と小屋は、2011年11月に約1ヶ月かけて完成させたもの。篤さんが初めて炭を焼いたのは、12月のことだった。
山から切り出したアカシアやナラを隙間なく窯に詰め、入口の木に火をつける。空気が入ると燃えすぎて灰になるから、密閉して蒸し焼きに。窯に火が回るまで半日、3日間焼き続けて、4日目の朝に煙が止まる。取り出せる温度になるまで、さらに一週間待つ。木片が黒炭に生まれ変わるには、手間と時間をかける必要がある。その苦労を知る小次郎さんは、若者が挫折しはしないかと心配していたというが、どうやら取り越し苦労に終わりそうである。
「このあいだ、割れて売りものにならない炭で肉を焼いたら」と篤さん。「うまくて自分でもびっくりしたんですよ(笑)!」
と、すっかり夢中のようす。篤さんと木炭は、まだまだ進化を遂げそうだ。
(右)「南郷青春の炭」は朝市で販売中
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。