地球を彫る〜彫刻家・向井勝實さん


向井さん

彫刻家には、30年は短いスパン

彫刻家になってから30年はつい最近ですか?
向井

もっと長生きしようと思っているんで。30年は短いスパンだと。
 もともとは絵が好きで、小学校の頃から絵が好きだったんですね。中学校の時に美術クラブを作ったりして。美術とかそういう表現ができる人生を送りたいと強く思っていて——。東京に行ったはいいけど、ちょうど60年安保の学生運動があったので、年代的にね。少し暴れて——。暴れたっていったって、あの(過激な)連中のようではなくて。自分のとこの学校でね、一応真似事するわけですよ。それで、学校やめて、初めて僕が展覧会するのは20歳なんですよね。66年ですよね、銀座二丁目のルナミ画廊で。
 何でか知らないけど、レジエ(20世紀前半に活動したフランスの画家)が好きで。たとえばピカソとか、ブラックとか、おシャレな作家がいるんだけど、レジエは、おシャレじゃないし、泥臭い労働者の匂いがするような絵を描いている。そういうのが好きで、それに影響されたような作品で1回目の展覧会をやったんですよ。

まだ必ずしも抽象ではない。
向井

その頃はね。そこからどんどん形がなくなっていくんですけどね。
 24才で、イギリスに行くんです。当時はニューヨークとかパリとかドイツとかじゃなくて、なぜかロンドンに行くんですね。絵なんか描く気ならないんだけど、そこで一番良かったのは日本映画を見る機会がいっぱいあった。町の映画館(こや)に行くと、日本映画の、小津とか黒澤とか溝口とか、そういったのをよくかけていた。
 それからコンサートにもよく行っていましたね。クラシックの大きなコンサートホールに行っても、たとえばバーンスタインの指揮なんて、普通ものすごく高いじゃない。でもあそこのいいのは、安いチケットがあるんですよ。天井近くの桟敷席とか、オーケストラボックスの前後とか。そういう席はたとえば、普通の座席だと何万円とかもするコンサートでも300円くらいで聴ける。そういうシステムってうらやましいよね。クラシックのホールに行くか、昼間はギャラリーに行くか、していた。

地下鉄の窓に黄色い自分が映っていた。

当時ヨーロッパにいたら、カルチャー・ショックみたいなものはなかったですか?
向井

一番印象深かったのはね。アルバイトでイタリア系のレストランで皿洗いしていて、地下鉄に乗って帰る時、ズックの溝にパスタの屑とか入っていて、嫌だからシコシコと電車の中で取っていた。そうしたら向こうのガラス窓に、黄色いやつが写っているわけ。びっくりするくらい黄色いの。夜だからね(反射して)鏡みたいになっているから。

向井さん

 ようするに自分が写っていた(笑)。自分が黄色い人種であるってことはね、東京にいる時は気づかない。八戸の人もそうだと思うよ。ようするに自分が黄色い人種だと思わないわけよ。これはイタダキ(表現の糧)だよね。この体験が、ロンドンで一番よかったね。
 我々日本人は黒人とか、カラード(有色人種)って差別するでしょう。差別しているのに、自分たちがカラードだっていうことを思わない。そのことがおもしろかったね。それがロンドンの収穫だった。
 自分はそういう意識はなかった。それから何年かして美術の国際展で初めて韓国に行くんだけど、韓国の人たちは自分たちが東洋人だと思っているわけですよ。でも日本人は東洋人だと思ってない。多くの人は、日本人は日本人だと思っている。でも、日本の自分たちは、本当はカラードだったり、東洋人なわけ。自分がアジア人だって強く思ったわけですよ。我々はいくら顔洗ったって白人になれないの。それをコンプレックスにしているから、自己認識しないところがあるでしょう。認知すればいいのよ。ちゃんと認知しないことにはね、僕は国際化できないような気がする。
 あぁ、オレ黄色いんだって。土留め色みたいな色してさ(笑)。日本人だけど、もっと大局的に自分たちはアジア人なんだと強く思うわけですよ。

人の羅針盤は、自分の生まれた場所を常に指す。

東京から那須に移られるのっていつ頃ですか?
向井

80年代後半かな。青森現代美術展というのは那須に来てからだから。80年代の中だな、アバウトにね、そうすると30年くらいになるかな。
 ある年頃になると、自分の根っこのことが気になってくるわけ。根っこがやっぱり青森なわけね。青森の場所に自分の軸足があるっていうのかな。
 思うんだけど、生き物もみんな、鳥でも獣でも、たぶんそうやって自分の居場所っていうのを確認するのかなって。それはかっこよく言うと、磁石の羅針盤があるじゃない。磁石は北を指すんだけど、人は自分の生まれた場所を指す。自分の生まれた所を羅針盤は常に指すわけ。
   
 青森を指してるということで——。それが居心地いいんだろうな。

那須には八戸出身の画家・豊島弘尚さんがいらっしゃいます。
向井

近所にいますよ。最近はアーティスト、芸術家の人たちが集まって来ているんだけど、僕が来た頃は誰もいなくて。一人でよく遊びに行ったりして、農家の人とか少しは知っていましたけど。
 最初は油絵をやっていて、それから木でだんだん小さな物を作るようになって、グループ展なんかにも出していたけど。以前、「芸術新潮」に太田三吉さんという人がずっと僕の絵を見ていてくれて、その人がね「おまえ木彫やっているのだったら、岐阜の現代日本木刻フェスティバルに出せ」って。日本のトップの連中ばかりのコンクールに出品したって落ちるからって言うと、オレがコミッショナーだから「招待するから出せ」って(笑)。
 三吉さんのおかげで、3回目に賞候補になったりした。ヒバの原木を持って行って、そこに人が入れるくらいの穴を開けてね、タイトルが「サウンド・オブ・ジ・アース」って、大地の地音。そこに何回か出した。そこから絵よりも木の方が優先して、今は9対1くらいかな。


向井さん

今でも時々絵を描くことはあるんですか?
向井

毎日描いている。僕は今ね、毎日こういうデッサンしているわけ。千枚くらいになっている。
 話が前後するけど、これがドイツの夏のフェスティバルで作ったエンジェルなわけ。ミュンヘンの近くの村長が木を運んできて、これで作れって。エンジェルには翼があるじゃない、そのイメージで作った。この冬にまた行ったら主催者が来て「向井、テーブルでかいのを作れよ」って言われて。これだけ多くの人が来たら大きいテーブルも欲しいのだろうな、と思っていたら、話がどうもおかしくて、そうしたら「テーブル」じゃなくて「デビル」だったのね(笑)。それで今度はこのデビルを作った。
 エンジェルって強いんですよ。だからエンジェルは1つでいいわけよ。デビルは弱虫だからいっぱい作ったわけ。弱虫だから、かたまってチンピラみたいになっているじゃない。エンジェルは強いよ。これ(デビルの彫刻)を500点くらい作りたいのよ。

たとえば意識されている彫刻家はいますか?
向井

ジャコメッティ(ほとんど針金のような人体で人間の実在を表現したスイスの彫刻家)ですね。僕、ジャコメッティの逆をやっていると、よく言われるんです。それは嬉しいことで、僕はジャコメッティ好きだし。ジャコメッティは芯を残すけど、僕は芯を取ってしまう。大間バージョンとか、下田の作品もそうなんだけど。
 人の形なんだけど、中を取ってしまう。「空にして、空」ってかっこいいけど(笑)。それはずっと作って行きたいなと思って。僕の展覧会を昨年開催してくれたシンガポールのナンヤン工業大学芸術学部の学部長は、僕のカタログを作ってくれたけど、その中で僕のことを仏教的、東洋的思想みたいな。空になるとか、無になるとか、そういったのがちょっと書いてあった。
 ジャコメッティというと、とんでもないおそろしい人なので。さっきの僕のカタログでも、たとえばピカソがこうしたとか、パウル・クレーがこう言ったとか、ロダンがこう言ったとか、引用していて。ちょっとやめてよ、恥ずかしい(笑)。そういうこと簡単に人に言わないでよ(笑)。

でも、わかるような気がしますね。向井さんの作品はやさしいですものね、温かいですよ。
向井

木だからね。ロンドンで印象的だったのは、ドイツのアーティスト、ヨーゼフ・ボイス(ドイツの現代美術家・彫刻家・教育者・社会活動家)展覧会を見たって何がなんだか分からないじゃない。でもその後でジャコメッティを見て、僕としては強く思うわけだけどね、自分のモチベーションそのものが、現代美術なんだなって。
 しょうがないね、持っているものって。子供の時に大間で育って、潜ってアワビ取ったりしていたから(笑)。
 それが原点じゃないかな。そういったものが仕事になればいいかなと思っている。


向井さん

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