大久保直次郎さんの八幡馬
素朴な美しさ
現在、八幡馬を製作しているのは、四代目大久保直次郎さんの工房と株式会社八幡馬(高橋利典社長)の二つ。その形は似ているものの、その作り方は違います。
現代の暮らしにマッチするべくデザインを工夫し次々に改良を加えている(株)八幡馬とは対照的に、伝統的な代々伝わる一鉋一鑿(いっぽういっさく)で作り続けているのが鉈の一刀彫り伝統型鉈削り四代目の大久保直次郎さん。青森県伝統工芸士に認定されています。
根城笹子の工房は八幡馬の素朴な美しさにふさわしく、時代をタイムスリップしたような純朴な佇まいです。工房の隣にある実家は萱葺屋根。工房にはホームページはもちろん、電話はあるもののファクスもありません。
「俺は昔の人間なので、八幡馬の伝統はまずは形だからあまり変えたくない」と語るので、気むずかしく職人気質の方かと恐る恐るうかがうと全く気さくな直次郎さんでした。
溜池から見つかり復活した八幡馬
八幡馬の起源は定かではありませんが、明治初年に大久保さんの曽祖父重吉が十六歳の時(明治初年)、八戸市笹子地区の溜池泥の中から馬の形をした木製の欠片を見つけたことに始まります。5寸(約15cm)ぐらいで、あまり大きくなかったそれを近所のおばさんが「八幡馬のかけらでないか」と言ったとか。それを工夫して製作したのが今の八幡馬の始まりというのが通説です。
元祖はおよそ750年ほども前に、都のある京方面から南部八戸の天狗沢に流れついた木工師が、ヘラやシャモジを作っていた合間に作ったものされています。ただ文献は残っておりません。青森県八戸市の南部一之宮・櫛引八幡宮は、鎌倉時代以来の由緒ある神社で、9月に行われる例祭では参詣者のおみやげとしてその馬の玩具が売られるようになったと伝えられます。
大久保直次郎さんの八幡馬
八幡馬の製作者として大久保家は江戸末期の弘化年代に生まれた初代重吉さん、二代目重吉さん倉松さんは明治初年(1868)、三代目岩太郎さんは明治36年(1903)生まれました。それを昭和17年(1942)の午年に生まれた直次郎さんが四代目。
中学を終えてから、北海道に4月に行って12月に戻ってくるずっと出稼ぎで働いてきたという直次郎さんは、昭和46年(1971)にたまたまのお盆の帰省で待っていたのは、病床の父・岩太郎さんでした。しばらくして亡くなった父の跡を継いで、農業のかたわら八幡馬の製作者となります。小学生の頃から親の目を盗んで一通り作ることはできたとは言うものの、元気なうちに技術を教わる事のないままのことでした。
「オヤジは好きでやっただろうけど、俺は嫌いでやったから、最初3年間に作った八幡馬をは下手くそだなと思いますよ。買ってもらった人には失礼だけども(笑)。でも、お客さんが比較するので、何がなんでもオヤジを乗り越えなければと」と精進を重ねました。
日本三駒として
大正の末期にはすでにナタを使った八幡馬は傑作とされ、三春駒(福島)、木下駒(宮城)と並び日本三駒の名玩具と賞賛されるようになりました。しかし八幡馬は「馬」であり、子馬を意味する「駒」ではありません。八幡馬でオーソドックスなのは黒い馬は鹿毛(かげ)、赤は栗毛のカップル。そのデザインは、昔の婚礼では鈴などで飾り立てた馬に花嫁が乗り、黒い馬は婿で赤はお嫁さんというのが一般的ですが、株式会社八幡馬では黒が親で赤が子という親子という解釈です。ほかに白塗のあし毛もあり、直次郎さんが発案した白木の八幡馬もあります。
もともと子供の玩具だった八幡馬は家に置いておく身近なものでした。昭和60年前後は、なぜか十和田湖畔の物産店で飛ぶように売れていたと言い、今ほど情報が行き渡らないであろう東京から注文がきたそうで、昭和60(1985)年代まではいくら作っても間に合わなかったくらいでした。四代目として鉈の一刀彫りの八幡馬を作り始めて45年の直次郎さん「もう死ぬまで作るだろう。伝統を守るというと頑ななイメージを抱きがちですが、実はかなり柔軟な直次郎さん。「50年に向けて大久保直次郎スペシャルとしていろんなものを作ってみたい」と大いに意欲的なのです。
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