ふらんすに行きたしと思へども
こう見えても(どう見えるっちゅうんだ?)我が輩は、詩人なのである。最近作は、「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し、せめてはコンビニのフランスパンを囓って、気ままにゴーツートラベル」というものなのだが、盗作の疑いで直近のSNSあたりで炎上したりしているとか。萩原朔太郎という詩人の「旅上」の作品に丸かじりじゃないし、丸かぶりしているというが、それは下衆の勘ぐりと言うべきであって、詩人の着想というのは、時空を超えて天上から舞い降りてくるのであって、萩原氏が拙作を真似たと言って、差し支えないと思うものはきっとまれであって、砂漠で針を探すに等しい行為であろう。過去が未来を真似るのである。
この作品の肝は異国のフランスを「ふらんす」と表記したことであり、ふらんすは今のフランスではないのである。「ふらんす」はすでに今はすでにどこにも存在せず、場所、つまり空間と時間は一致するにであるからにして、「ふらんす」とは憧れていたその時代の、その時点のフランスであって、次期オリンピックのパリ市を抱える現代のフランスではないのだ。胸苦しいほどに憧れていた国は、「ふらんす」であって、フランスではない、仏蘭西に近い。そのことを理解しない者は、我が輩と語るに値しないであろう。
時間と空間は一致すると言ったのはアインシュタイン博士であるが、博士の舌出し写真と肩を並べて世界で有名な舌出しと言えば瀬世界最強のロックバンド「ザ・ローリングストーンズ」であろう。そのドラマーのチャーリー・ワッツが先日亡くなった。80歳であったという。人生100年時代にあっては、まだちょっと早いという気もするが、「ワッツ・ザ・ワンダフル・ドラマー」と書き記し弔意に代えようと思う。
舌だしと言って、連想したのが「スターダストレビュー」であった。つまり舌出すとレビュー(批評)が来るぞ、という警世の句と解釈し、現代では簡単に舌を出してはいけないという戒めなのであった。さすがにボーカルの方は根本をつき、なお要なのだなぁ。
(精魂尽き果て、季節外れに桜〔錯乱〕咲いた様子で、誰も読まぬと思っての駄文。詩人に口なし。ご寛容、ご容赦願い)
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