中山さん、野見山暁二さんのこと

 「いつもどの頁を開いても八戸の、青森の、東北の元気さに溢れてますネ。郷土愛が沢山つまってる!! 転勤族のせいか、こゝに住んでるせいか、ユキパルや新聞等がなければ、そんな存在も知らないまゝに過ごしてしまったかも」
お葉書をいただいたのは東京都渋谷区在住の中山さんから。過分の文面から、「郷土愛」にも「元気」にも自覚がない編集者としては恐れ入りつつも、やはり大いに励まされている。
 中山さんは八戸に転勤して数年をご家族で過ごし、現在お住まいの東京都渋谷区に戻られた。八戸におられる間にお近づきでき、田舎育ちの海山のもんでもない世間知らずには、その人生の先輩から本当に学ぶことばかりであった。
 何気ない話の一つ一つ、自分の身の回りの環境にないものばかりだった。アメリカ、ボストンに赴任していたとも聞き、一言で言えば文化的環境というか素養というか、全く自分が備えていないことを自覚した。若気の至りの図々しさで東京のご自宅に泊めて頂いたことも数度あった。
 途中のことは割愛するしかないが、現在は、毎月のようにユキパル誌の感想をハガキに万年筆で書いて送って下さっている。小生と言えば生来の汚い字で返信するのがはばかられ、かと言ってタイプするのも味気ないとも思い、結局、筆無精と言うことで許して頂いてる(かどうかは確証がない)。
 そう言えばたった今、思い出した。
 6月22日に102歳で永眠された洋画家・野見山暁治さんが僕は大好きで、中山さんと一緒に観に行った『ジャコメッティ展』の帰り、出口エレベーターあたりで野見山暁二さんを見かけたことがあった。
 「わぁ、野見山暁二だぁ」と、アイドルとか動物園のパンダを見るようにして瞬間目が合ったのだが、もちろん向こうは怪訝な表情だった。
その頃はまだまだ東京が遠かった。時代に置いてけぼりを喰ってしまうような焦燥感にかられて、口実を見つけては上野行きの列車に乗ったけれど、今は新幹線で3時間弱というのに、すでにそんな気持ちの熱さはもうない。
 エッセイの妙手でもあった野見山さんは、20年も滞在したフランスから日本に帰国し、それからまたしばらく経って渡仏したときに、自分たちがめざした「芸術の都」はパリからニューヨークと移ってしまい、これからグローバルな時代では「芸術の都」はどこにもなくなり、芸術的なインスピレーションは自分が住む場所に見いだすしかない、と何かのエッセイに書いていた(ように記憶しているのだ)。
 野見山暁二さんは戦没画学生の作品を展示する「無言館」(長野県上田市、1997年開館)の設立に尽力したことでも知られる。
 あったり前だが時代は変わる。世界も変われば日本も変わる。好き嫌いはともかく、東京も変わるし八戸も変わった。戦後戦後と言っている間に78年も経つと、総理大臣経験者が他国に行って「戦争をする覚悟が必要だ」と言い放つ時代になった。戦後なのか戦争の何年か前なのか。願うべきは、良きものは変わらず悪しきものは変わってほしいのだが、何を良きもので何が悪しきものとするかは、各人の価値観によって違うから一筋縄には行かない。
 「戦争をする覚悟」よりは、人生の先輩たちから教わったものを心の芯に据えて、試練でもある「人生百年時代に向き合う覚悟」の方がよっぽど必要だと僕は思う。

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