
阪神淡路大震災から30年
1995(平成7)年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災から30年がたった。淡路島北部で最大震度7を記録し、神戸市を中心とした阪神地域で建物の倒壊や大規模な火災が相次いだ。怪獣になぎ倒されたような高速道路の橋脚の映像、ビルが立ち並ぶ街のたち上る何本もの赤黒い火煙。テレビ画面に映し出されるその不気味な光景をただ呆然と眺めていた。死者は6434人にも達した。
その前年の1994年(平成6年)12月28日の夜9時19分、青森県八戸市で震度6を観測した地震があった。仕事納めであり、忘年会帰りなどのサラリーマンやOLで賑わっていた師走の夜、いきなり激しく揺れた地震でほろ酔い気分も冷めた。繁華街の一画、朔日町と六日町交差点の角地にあった3階建てのダイエービルが倒壊し1階が潰れて2人が死亡した。その1階にあったパチンコ店「ダイエー」は1週間前に新装オープンしたばかりだったという。三陸はるか沖地震と名づけられた。
個人的には、2ヵ月前に父の葬儀を終え、ようやく生活が少し落ちつき始めた時期だったので、この地震でやっと戻るかに思えた日常の平穏さが脅かされたような気がした。
追い打ちをかけるように、阪神淡路大震災から2ヵ月後、1995年3月20日の朝、丸ノ内線、日比谷線、千代田線の地下鉄車内で地下鉄サリン事件が発生。オウム真理教が引き起こした同時多発テロ事件である。祝日の春分の日、快晴。それを裏切るような混乱した惨事の映像がテレビから続々と流れていった。
そのように始まった1995年の秋、11月23日にはマイクロソフトのOS「Windows 95(以下、Win95)」日本語版の国内販売が始まった。その頃からパソコンが仕事に不可欠なものとなったような気がする。のちにインターネット元年とされるが、当時の環境では繋がるスピードもあきれるほど遅く、まだまだ実用的に使うにはほど遠かった。
30年後の今は、人工知能のAIからさらに人工生命のALまで出現するのだから、IT技術の発展進化は止まらない。その反面、日本経済と人の暮らしは「失われた30年」とも評されるのだから、複雑な気分もより深化している。父の死後に脅かされた日常の平凡さが、それからずっと揺さぶられ続けて現在に至っているような気がする。
中学時代の美術の恩師が相次いで亡くなられた。瞑目し合掌。
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