右脳左脳している

人間には右脳と左脳があり、左脳は〈言語脳〉、右脳は〈イメージ脳〉とされている。たしかに右脳は直感・感情・芸術的才能と関わりが深く、左脳が論理的思考や言語能力をコントロールしているのは事実らしい。
だからいつ頃からか「右脳派だからクリエイティブ」「左脳派だから論理的」という話がまことしやかに巷を賑わしている。アーティストは右脳を使って、ビジネスパーソンは左脳を使うという。
費用対効果でコスパとかタイパとか効率重視の現代社会に生きる我々は、左脳ばかりに偏りがちの管理社会に閉塞感がある。そこから右脳を鍛えようみたいなことになった。農耕民族で右ならえ意識の強い日本では、「世界でたった一つの花」のような個人ではありづらい社会だと思う。
究極の右脳派ともいえる20世紀最大の画家パブロ・ピカソは、子どもの頃から天才を認められ、後期は子どもが描いたような絵(とばかりも言えないが)を描いた。「学校の成績が悪かったピカソがいつ算数を覚えたんだろう?」と友人が語ったというエピソードを読んだ記憶があるが、気ままな感覚だけでああいう絵は描けないような気がする。大人のピカソが子どものような絵を描いたことが人間の未知の大きな可能性を示しているように思う。
「生まれたての赤ん坊が世界を見るように絵を描きたい」と言ったのはピカソではなかったか。
別な分け方で文系、理系というのもある。右脳的なのが文系で左脳的なのが理系というのは全く正しくはないだろうが、乱暴に白黒つけて大ざっぱに分ければそんなイメージ。
「哲学でジュリエットはできません」(『ロミオとジュリエット』)という台詞が思い浮かんだ。シェイクスピアの戯曲では、16歳のロミオが14歳のジュリエットに出会い、恋におちて死んでいくまでの5日間のできごとを描いている。もともと元ネタがあって、そっちは若い恋人たちが一時の熱に浮かされて親の言うことをきかないとこういう目にあうんだよ、という説教臭い話だったらしく、それをあのような純愛悲劇にまで高めたのはシェイクスピアのみずみずしい感覚によってだ(というような話をずいぶん以前に読んだが出典はとっくの昔に忘れた。よって当コラムはデタラメ半分だと思われて何の異議もない。今さらだけれど)。
でもって何を書きたいかというと、気分だったり雰囲気だったりで思い浮かんだことをつらつら、あるいはだらだらと書きたくなるのは右脳君のおかげで、何をテーマにして読んでもらいたいかをコントロールしているのが左脳君ではなかろうかと思ったのでね。それで右脳左脳している。
「右脳が発達していると創造性が豊かになるというのはほとんど迷信」だと脳科学者の中野信子さんは言っている。
「あー、わかってくれとは言わないが、ララバイララバイ、おやすみよ♪」と歌っているのは右脳か左脳か、脳梁(のうりょう)がつなぐ両脳のハモりなのか。

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