余白の春

ミニチュア工房ちびっつ@雫石さんのお話をうかがっている時に、「ドールハウスはもともと余白の芸術だったはずなんですよね」と聞き、納得しました。
出版印刷物などのページでは上下左右の空白部分(マージン)でしょうが、もう少し意味を広げて画像や文字がない白いままのスペースだとします。
余白とビジュアル、文字のコンテンツの対比にほどよい緊張関係が欲しいと願うのですが、泥縄状態の作業で、それはすっかり後回しになってしまいます。
思うに、人はその余白を埋めずにはいられない欲求、衝動があるのではないでしょうか。もともと白紙の状態(スキマ、あるいは何もない空間)から始まって、そこに何かを描き込む、作り込む、アクションすることが創造的行為とも言えると思います。平面芸術は白いキャンバスなどを埋める、音楽は時間を埋める、ステージ芸術は空間と時間を埋める、とか。
見逃した番組、映像を倍速で見られますというのがCMになるぐらい、現代はさらに加速して効率化が追求されているようです。空き時間を何かの用事で埋める、手帳のスケジュールが埋まっていなければ不安――となると、一種病的な状態なのではなかろうかと思うのです。
そう言えば「アナタのココロのスキマを埋める」という黒ずくめのセールスマン、喪黒福造が主人公の漫画、アニメがありました(藤子不二雄Ⓐ『笑ゥせぇるすまん』)。ボランティアということで、願望を叶えてもらう依頼者は、結局自身のさらなる欲に溺れて転落してしまうのですが、その時にあの不気味な笑顔から発せられる「ド~ン!!」という宣告は、思い出しても心臓に悪い。
♪余白はキを切る~なんて口ずさんでも、今のジェネレーションZは「はぁ?」と思うでしょうね(しかし、意外にそういうところまでカバーしかねないところがこの世代の手強さがあるような気がしていますが)。
まとまりのない話になってしまいました。余談です。
余り物にはきっと福があるぞ、と。

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。