「活イカ」で街を活性化! 八戸屋台村「ととや 烏賊煎」オープン〜中居 雅博さん(有限会社北のグルメ都市)


中居雅博さん

平成22 (2010)年に新幹線新青森駅が開業されましたが、その影響を感じていますか?

今回、通過駅というより第2の開業として捉えるならば、何か話題が必要だろうということで、三日町側の方に活イカの販売所とそれを召し上がれるお店を作っています。
 イカの街はちのへといいながらも、目に見えて判りませんので、中心街に活イカの販売所を設けて、屋台村や中心街の他の飲食店の方々に『活イカあります!』というメニューを掲げて頂いて、どこでも活イカを食べられる、目に見える形でイカの街はちのへをアピールすることと、活イカを全国発送してイカの街はちのへを盛り上げていきたいなと思っています。
それが屋台村の通過駅になった中でのテコ入れの一つですね。

ようやく「イカの街はちのへ」がでてきたような。

そうですね。いま、大阪の会社が開発した新しい酸素パックの袋で3日くらい保つようになりましたから、東京とかに活きたまま送ることも可能になってきましたし、これでちょっと来て、ちょっと買って、すぐに捌けるという仕組みになっています。
水槽は三日町側に面していて活イカや活魚を買えて、召し上がりたい方は奥で召し上がって頂くことが出来る。

「イカの街はちのへ」って言っても特に街なかに目印はないですからね。

えぇ、目に見える形では何もないですからね。活イカが動いている。それが一番判りやすくて良いんじゃないですかね。
 青森県内の漁港を全部廻りました。それで活イカを獲ってくれる漁師さんとタイアップして、活イカが獲れたところに行ってパックにして持ってくる。
 この仕組みをつくるのが大変なんですよ。あくまでも需要と供給の問題がありますんで難しいんですよ。需要と供給の問題があると同時に、最長3日しか生きないということで在庫を抱えられない。非常に難しい話を今回やるんです。

「イカの街」で活性化するのであれば、こういう取り組みからスタートするのは、正攻法なような気がしますね。

これしかないですね。これをどうやって継続していくかっていうのは仕入れの漁師さんの問題が一番大きいですし、揚がったものは当然、契約として全部買わなくちゃいけないですから、そこが一番難しいと思いますよ。
 今回、一番難しいことに取り組むわけです。でも、そこをなんとかして使ってもらって、どんどん拡大していくと。それしかないです。

■中心街で通り抜けができることが絶対条件。
それができなければ屋台村はやらなかった。

開設以来、多くの方が訪れるみろく横丁ですが、平成14 (2002)年12月の東北新幹線八戸駅開業に向けて2年以上前から温められていたそうですね。

私が抱えていている団体に『八戸エコ・リサイクル協議会』というのがありまして、平成9(1996)年に協議会を起ち上げてから環境に関する啓蒙活動をずっと続けておりますけれども、そのなかでの継続型の事業の一つが屋台村ということですね。
 若手起業家の育成と環境と集客、中心街の活性化の施設を作るというのを考えていました。
 その構想がある中で、平成14年に八戸に新幹線が来るということで、『新幹線開業実行委員』が出来上がりまして、わたくしもメンバーに参加させて頂いて。その時に、八戸においでになるお客様へのおもてなしの一環として、なにか継続型の事業がないかという話が出まして、エコ・リサイクル協議会で温めていた屋台村の構想を出来るのであれば、というのがきっかけになりまして、今の場所をお借りすることが出来たので、新幹線開業に併せてオープンすることが出来たということです。

継続した事業を中心街で行いたいという考えはあったのですか?

ええ、中心街の活性化っていうのは一番最初に考えておりました。どうやったら、中心街に人をまた呼び戻すことができるのかに主眼をおいていましたから。

通り抜けが出来る横丁を作る構想がもともとからあったということですね。

ええ、通り抜けが出来なければ、この横丁の屋台村構想っていうのは、最初からやるつもりはなかったです。
 いくらボランティアとはいえ、かなりのリスクを負うかたちになりますので、間違いなく成功するためには通り抜けは絶対条件です。通り抜けと中心街の真ん中っていうことが頭にあって、その二つをクリアする場所があそこしかなかったと言うとですね。
 屋台村に行くつもりはなくても目で楽しみながら通り抜けが出来るような横丁をまず作るっていうのが先決で、その両側に屋台を貼り付けるっていうのが基本的考えが、そもそもの計画でしたから。使い道のない土地で空いているから「じゃぁ、屋台村やろうか」っていうのとは、全然違う話ですので。“ここにまずありき!”っていう。
 最終的に私はビルの屋上に上がりまして、中心街の木造の家を全部チェックしたんですよ。木造であれば、取り壊すというのも出るのかな?というのが私の考え方でしたから。
 ですから、六日町側はラーメン屋さんをやっていましたし、三日町側は木造の雑居ビルでビジネスホテルを作る予定で設計が出来ていたんですけど、お二人のオーナーに「地域づくり、街づくりという事業をやりたいんで、是非土地を貸して頂けないでしょうか」という話をして、お二人のオーナーの方の賛同を得ることが出来たんで屋台村が出来たと。二人のうちどちらかが反対されれば屋台村はできなかった。

まずは、通り抜け出来る“土地ありき”というところで木造があの形で残っていたと。

そうです。まずは土地ありきです。こことここの建物を取り壊しすれば通り抜け出来る道路が出来るな、という考えで。どちらも塀みたいにしていて、全くわからないんですけど上から見るとわかるわけですよね。

全国にたくさんの屋台村が出来ていますが、やはり、作り方は違うんですね。

みろく横丁をモデルにして今、20軒くらいの屋台村が出来ていますけども、他は取り壊しをしてまで屋台村を作ったところは1軒もないんですよね。だから、みんな、みろく横丁をモデルにして作っていますけどね、やっぱり売り上げから何から全然違っていますよね。

みろく横丁を開設するにあたって、出店者の反響や応募状況はどうだったんですか?

私の場合は、いままで広告宣伝費は1回も掛けことがないんです。というのは、会社にお金がないですから。広告宣伝費は打てないんで、どうしたらマスコミの方々に取り上げていただけるか。それに非常に力を入れて参りました。
 ですから、取材に関しては出来る限り時間を取って必ず応対したり、時流に乗った話題性のあるイベントをあまりお金を掛けずに、どうしたら効果があるかをずっと考えてやってきました。募集に関してもマスコミの方にお願いして、『ここに屋台村が出来るよ』っていうのを記事にしていただいて、盛り上げて、募集も出来る限り多くして、一所懸命にやって協調性のある子を出来る限り採用した。
 そういったことから、あえてオープンも2つに分けて、新幹線が来る前と落ち着いた頃にオープンしています。
 本来であれば一発で出来るんですけどもね、これもマスコミ対策で一面に載せるというのと、募集を出来る限り多くしたいという意図がありましたんで、2つに分けて募集して、どちらも10倍の応募者が来ましたんで、10人の中から1人選ぶっていう。
 若くてやる気があって資質のある良い子をどう募集できるかっていうことが、一番重要なことでしたから、そこのところが非常に力を入れたところですね。

3年契約の更新なしで、再応募に関してはO.K.という形を取られていますね。

これは当初から考えていました。3年周期というものの考え方をしていましたので、3年契約で一端、全部ゼロにすると。屋台村の活性化を考えるのであれば、3年に1度の活性化はどうしても避けて通れないし、ちょっと面倒ですけれども、これはやらなくちゃいけない。
 それと、若手育成も考えていましたから。3年間、真面目にお仕事してもらえればお店を持つお金もお客さんも出来て、屋台村の卒業生が中心街の空き店舗に入ってくれれば、活性化には一番だろうというのが基本的な考え方なので、それは徹底しています。
 今、屋台村を卒業してお店を持って商売されている方が14、5人くらい。あとは屋台村をやりながら2号店を持っている子が10軒くらいですね。
 でも、3年で全ての契約が終わりますので、継続したい子も履歴書から全部改めて書類を出して頂いて、書類選考から試食会までやって、新しい25店舗を決める。

出店場所の決定は中居社長がされるんですか?

場所を変えるためにはどうすればいいかっていう逆算的な考え方をしていますね。3年で全ての店舗の契約が終了しますんで、25店舗全部、場所が変わります。ですから、お客さんにとっても非常に新鮮になるんです。
 その時、みろく横丁は1ヶ月間、丸々休ませます。30日ですね。でもその30日、全店閉店ですけども、3年に1度やった年が一年間の売上げを見ると一番伸び率が良いんですよ。

みろく横丁では独自で様々なイベントも行っていますが、それは出店者の方々が考えていらっしゃるんですか?

どういうものが一番効果的かを考えて年間のスケジュールを作っています。当然、出店者から「こういうイベントがやりたい」とかがありますんで、良さそうなものは採用してやっていますが、基本的には私が考えていますね。
 あとは、自発的に、どこそこで地震があったから自分たちでせんべい汁を作ってそれを寄付したいということも言ってきていますんで、そういう点では結構、考え方の精度が上がって来ているのかなと思っていますね。

■村組織で地産地消とゼロエミッションの実行

屋台村は廃材やリサイクル品で屋台や通路を作っているほか、各店舗で出される生ゴミや割り箸などを回収し、循環型屋台村として注目を集めていますね。

先にコンセプトありきだと言うことで、7つのコンセプトを(屋台村を)作る前に発表しましたね。今もそれを継続し続けているというのが屋台村の特徴なんです。
 環境に対する意識は一番大変でしたね。うちは月1回、必ずテナント会――2時間くらい70項目をやっていて、その中に環境について15項目くらい入っていますので、それはとにかくずっと言い続けて。
 (みろく横丁の)真ん中のところに、当時としては最新鋭の生ゴミ処理機があって、仕事が終わった後に生ゴミを入れて帰るっていう仕組みにしているんです。

環境意識やリサイクル意識というのは、飲食業ではかなり難しいのではないかと思ったのですが

それはもう店主次第ですから。(みろく横丁は)基本的に村組織にしていますから、なにか問題があれば25店、全員がその問題に当たると言う形にしていますから、そう言った点ではいい方向で村組織が機能していると言うことですね、今は。

では、コンセプトの中にあるスローフード、地産地消についても教育している。

基本的には南部地方の13市町村と岩手県北から採れるもの以外は扱っちゃダメだと規制をかけています。
新メニューも当然、どういう材料を使っているのかっていうこともテナント会で必ず発表させています。
その材料が(地元で)全然採れないのであれば、それに変わるものを代用していただきたいという形ではこだわってやっていますね。

生産者の発掘や仕入れに関しては中居社長が決めていらっしゃるんですか?

仕入れに関しては全て自由にしています。全く自由。本来であれば(売れる)テナント方法っていうのはですね、仕入れを固定すると運営会社はすごく儲かるんですよ。お酒はここからとか、お肉はここからしか取れませんよとか。
 ただ、それをやるとですね、出店者との信頼関係がなくなりますので、あえて全部取り払って「自分が安いと思うところから自由に仕入れて下さい」と。メニューが豊富だっていうのはそこにあるのかなという気がしていますけどね。

その他にも経営、接客サービスなど、お店を運営していくことも一から教えていらっしゃるんですね。

教えていますよ。普通、オーナーはそういうことはやらないんですけど、街づくり・地域づくりとしてみろく横丁を始めていますんで、月1回のテナント会議だけは非常に重要視しています。
 再確認をするという意味でも、考え方の意思統一を図るということでも、月1回のテナント会が非常に重要であるというのが私の考え方なんです。ですから、必ず年に1回、今年度の目標を掲げて、その朗読から入りますから。

朗読ですか。以前、みろく横丁のステージ前にみんなで集まって歌の練習をしているところを見かけたんですが、中居社長が指揮していて・・・。やはり皆さん、仲がいいんですか?

あれは、せっかく屋台村の店主が結婚式をするんだから「なんか出し物をだしなさい」っていうので、屋台村の歌があったんで、みんなで歌いましょうということになったんですよ。

団結力ですね。雑誌で書かれていた記事を読んだのですが、皆さん、笛を携帯していて何かあれば笛を吹いて、それでみんなが集まって来るという。

結局、運営会社はボランティア会社で警備のお金とかないですから、村の組織をどう使うかっていう考え方ですね。

■八戸市民に愛され続けることを考えるのが基本

屋台村は中心街の目玉、観光施設でもあり飲食のポイントとしても定着したと思いますね。

そうですね。結構、屋台村を目がけてくる観光客の方が多いですから。屋台村の良いところは通過型じゃなく、必ず1泊していただいて屋台村の良さが判るというところですね。観光バスでピッと見て、違うところに行っちゃうというのとはちょっと違うわけです。市内にお金を落とす確率が非常に高いということですね。そういった意味ではある程度、貢献しているのかなと思いますね。

中居社長の当初の思惑、予想と、実現した結果は違っていますか?

基本的に八戸の市民の方々に愛され続けるためにはどうしたらいいか、っていうことがそもそもの考え方で、いかに継続できるかはやっぱり、八戸市民の方々に支えられないと継続できないということですから、そこに主眼をおいていました。あくまでもプラスアルファとして観光客の方を考えていましたね。

予想以上に観光客が集まったということですね。

そうですね。これもマスコミの力が大きいことがあると思いますよ。色んなところで取り上げて頂きましたから。

話はみろく横丁から離れますが、横丁連絡協議会も発足させていて、中心街にある横丁との連携を図っていますよね。

やっぱり、屋台村だけじゃなくて昔からある横丁があるんで、それを全国に発信させるためには横丁連絡協議会を作って、他にこんな横丁があることを皆さんに知っていただく。
 それと屋台村は通路から、お客さんや店主、メニューも単価も全部見える。安心していつでも入れる形にあえて作っていますが、ほかの横丁はドアを開けてみないと店主もメニューも単価もわからない。そういった部分を払拭してあげてですね、どこも安心してお召し上がり頂けますよという形にすれば、初めてのお客様でも安心して入れるのかな、という形を整えたかったんです。

今後の展望や地域との関わり方についてどのようにお考えでしょうか。

屋台村をやってみて、地方都市として人口1万に対して一軒というのが(屋台村として)理想的だという考え方にある程度固まってきていますんで、八戸は25万人ですから25軒で丁度良いんじゃないですかね。ここで出来る限り、いつも話題性を持って集客力があるようにすれば、他の飲食店にも当然いい影響が出てきますから。
 屋台村は25軒あるといっても、1軒に8席ありますが、4人入ると満席状態みたいになりますんで、屋台村を目当てで来たお客さんも混んでいれば違うところに行きます。そういった意味では出てくるきっかけ作りをこれからも作りたいと思っていますね。
 「屋台村に行こう」と。来てくれれば屋台村だけでなく他のところにも行く可能性が出てくる。(中心街に)来て頂いての活性化ですから。

■考え方の基本は6年間のマクドナルド、運営は180度変えました

大学を卒業後に就職した日本マクドナルド(現:日本マクドナルドホールディングス株式会社)での経験が、屋台村の構想にも活かされているそうですね。

私は大学を卒業してアルバイトニュースを見て、日本マクドナルドに入社したんです。
 当然、銀座四丁目の、三越が1号店のときだったんですけど、入社してすぐに日本で初めての歩行者天国が始まりまして。その時に、たぶんゴミ問題が出るということで、歩行者天国の日は1時間置きに、銀座一丁目から六丁目までマック以外のゴミも全部、掃除させたんですよ。
 やはり莫大なゴミがでてきまして、「これだけゴミを出し続ける世の中が、果たしてやって来ていいものだろうか」と、非常に疑問を持ちながら仕事をしていたっていうのが環境問題の発端ですね。ゴミとずっと格闘していましたから。
 それで、家業を継がなくちゃいけないっていうんで泣く泣く八戸に帰ってきて、今度はゴミを出し続ける元凶の会社に入りましたからね(苦笑)。
 やっぱりゴミ問題とは離れられないなということで、ゴミを出す会社がゴミ問題の発信で、どうしたらゴミを減らせるかという形の組織を作りたいなと思って、頃合いをみて作ったのが食の文化資料館 包(パオ)なんです。

食の文化資料館 包(パオ)ができたのが平成8(1995)年頃?

頃合いをみていたっていうのはですね、ちょうど平成8年頃からやっと環境という言葉が出てきたんですよ。
 それまでは公害という言葉で、公害という言葉から環境と言う言葉に切り替わったのが平成8年頃です。環境問題をみんなで考えるような形に入り始める時に、環境問題の交流の場になればいいなということで食の文化資料館 包(パオ)という資料館を作ったということですね。

八戸スローフード協会も起ち上げておられますが・・・。

スローフードはマックの裏返しって意味もあるんですよね。私はファストフードって言葉がない時代から携わってきましたから、果たしてファストフードが日本人にとって良いのかっていう疑問を持ちながら仕事をしてきたというのは確かなんですよ。
 でもあっという間に日本人に取り入れられて、あっという間に広まったというのは私が考えるに食事方法が抜本的に違うからだろうと思っています。
 食事方法には二つありまして、日本の場合はお膳に最初から食べる物が全部決まって出てきているわけですよね。そうするとお膳を持って部屋で一人で食べることが可能なんですよ。一人で食べることが可能な食事方法にファストフードがスポンとはまったというわけですね。
 ヨーロッパの場合は、一つの料理をみんなで食べて、食べ終わらないと次が出てこない食事方法ですから。イタリアでは、映画『ローマの休日』にも使われた場所にマクドナルドができるというときに、外国の食文化に我々の食生活が脅かされるということで、市民のもの凄い反対運動が起きたんですよね。
 それをテレビで観ていた地方の村で、ファストフードに対抗して自分らで考えようと出てきた言葉がスローフードで、それが基本的な発端の考えになって、スローフードがスタートしているんです。面白い考え方だなと。
 そこで、早速入会して、翌年に支部を作って、スローフード協会に全国で32番目に入りました。結構早かったですよ。
 ですからスローフードができたのもマクドナルドが原因になっているんですよね。その原因になっていたところに私はずっと勤めていたんですよね。

マクドナルドへは何年くらい勤めていらっしゃったんですか?

6年ですね。10年で実家に帰る約束だったんですよ。大学は4年なので勤めるのが6年しかない。真面目に一生懸命やっても課長かなんかで終わるのも面白くないと。爆発的に伸びる企業がないかってことでマクドナルドに入社したんですよ。

気がついたら10年経っていて、泣く泣く帰ってきたと。

そう(笑)。だから私の基本は6年間のマックの考え方ですね。屋台村を見てファストフード的作り方だねってよく言われるんですが、当然ですよ。マックが基本に入ってますから。作りから何から全部マック方式です。
 だから運営は180度変えました。ファストフードからスローフードへ。スローフード時代の幕開けの象徴としたいっていうのはこの屋台村を作った本当の考え方で、コンセプトです。

屋台村の方式はファストフードだけど、提供する料理は地産地消のスローフード?

そうです。どこに行っても同じ味、同じ価格ではなくて、地元人しか、そこでしか食べられないような郷土料理を出してあげたい。全国の屋台村ができても、屋台の食べる料理は全部違います。そこの土地に根ざした料理を出すということが基本コンセプトです。
 ですから、屋台村の設計の段階で25店舗を作るとなった時点で、25種類の八戸にとって必要な屋台っていうものを、まず先に挙げました。どういう郷土料理、名物料理があるのか。2、3軒屋台村をはしごしてもらえれば八戸の味が全部わかる仕組みをしているっていうのはそこにありますね。

みろく横丁は全国の屋台村のモデルケースにもなっている成功例ですが、要因はどこにあるとお考えですか?

屋台村の作りで一番重要なのは1対8の法則。店主1人に8人が囲む方式が現在考えるコミュニケーションの最大限取りやすい方式で、狭すぎても広すぎても1対8の法則は成り立ちません。
 1対8の法則を破って作れば、ただの居酒屋になるってことですね。あれは8人しか座れないから向かいでも対面でも話が自由にできて、年代を超えていろんな話をできる場所を提供してあげているってことですから。
 そこに郷土料理が入るわけですから失敗する要素がないんですよね。居酒屋やレストランで、全く見ず知らずの人に声掛けて仲良しになるっていうのはまず不可能ですから。

チェーン店とは違いますよね

全然違います。考え方が全く違いますから。チェーン店はマニュアル通りにしかやらないですが、屋台村はマニュアルが無いですから。
 その人その人の店主の“おもてなし方法”が全部違いますから、マニュアル化は出来ないんですね。

■地域に根ざした地方発信からの活性化

中居社長は安藤昌益資料館を育てる会のメンバーでもありますが、中居社長が考えるこれからの観光とはどんな形ですか?

これからの観光は、団体バスでばっと乗り付けてぱっと行くという時代は終わって、それぞれ自分の趣味に合ったところに3、4人で旅行するのが非常に多くなる。そういう風な趣味に合った方々が毎年訪れるような場所をどうやって提供したらいいかっていうのが私の考え方の1つですよ。
 たとえば安藤昌益資料館ですが、調査したら、日本で安藤昌益を研究している方が1万人ぐらい居るんですよ。その方々っていうのは、場所を作ってあげれば一過性ではなく必ずリピーターになる。イベントや命日など色んな形で年に1回ぐらいは来て頂ける形をどうやったらとれるか、という1つの見本として安藤昌益資料館を作ったということですね。
 出身地は秋田ですけれども資料館が日本にまだひとつもないから、八戸の情報発信基地として安藤昌益をその1つにしたいと。そこで安藤昌益を八戸で研究している方々に「会を是非作りたい」とお声をかけさせてもらって。

形が無いですもんね。安藤昌益の生誕じゃないけど、そこで何かを使っていても形がないですからね。ある意味、ファン心理をついている気がしますね。

ファンの方は不便であろうが遠いだろうが関係ないですから。そういう方々を毎年リピーターで来て頂けるような仕組みを利用するべきだというのが基本的考え方ですね。
 人を呼ぶためには郷土に根ざしたやつで何か特徴があるやつで地方発信をするっていう考え方しか無いんですね。そういう風なやつをたくさん中心街に持ってくれば、色んな価値観が出てくるから、それしか無いと思います。

今後の課題はどうお考えですか?

とりあえずは、活イカの販売でどれだけ話題性を持てるかというのが一つですね。屋台村に行って活イカを食べよう!ということですよね。まずはこれを世に知らしめることが先決なのかなという気がしています。
 あとはマックを日本中に広めたように、今度はスローフードの象徴の屋台村が各地方都市にどんどんできてくれれば――。地方の郷土料理、名物料理が手頃な値段で味わえて、その屋台に行けば全ての情報が手に入るこの屋台村方式を今後は全国に広めていきたい。

■「屋台村は街に出てくるきっかけ」と話していた中居社長。みろく横丁を軸に中心街の他の飲食店や横丁へと市民や観光客が足を運ぶ仕組みを作り、中心街を活性化したいと話す。
とかく、観光スポットと見られがちなみろく横丁だが、そこには地元市民と自然に触れ合える間口の広さがある。観光客が魅力を感じるのは、八戸の日常を垣間見られるからではないだろうか。
「市民に親しまれ愛されるためには――」を考えながら、地元に密着した話題を生み出し、脱慢性化を行うみろく横丁は、日々進化している。

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