春の彼岸過迄

人類が言語を使い始めたのがおよそ10万年前で、文字を発明したのが5千年前、活字、印刷はたかだか500年前。言葉と人類の関係からすると、つい最近のことではないか。先日、90歳を超えた作家の五木寛之さんがラジオ深夜便「千夜一話」でそう話されていて、あらためて人類と言葉の関係を考えさせられた。
すべからく印刷された本が当たり前という時代に育ったので、手書きのものが活字になるとそれだけで偉くなったような〈活字信仰〉がかすかに残っている。デジタルテクノロジーが進歩した最近は、また少し事情が変わっているが、以前は書き言葉で活字で残してこそ〝ありがたみ〟があって、口述筆記というのは手抜きのようで、どことなく軽んじる気分があった。
でも本当はそれは逆なのかも知れない。向き合う相手に対して言葉を口から発して言うことが本来のコミュニケーション手段だと感じ始めている(ろうあなどの障害は別として)。生々しい響きのある肉声こそが大事だし原点じゃないだろうか。
不思議な気がしていたのは宗教でも、仏教であれば釈迦自身、キリスト教であればイエス自身が書いたものはなく、すべてがその弟子、信徒たちが、師はああ言っていたこう語っていたという記憶を後に文書化したものが仏典、聖書となっていることだ。
釈迦は紀元前5世紀とか7世紀の人(これだけでも数百年の違い)、キリストは紀元前7年後頃から紀元後30年頃の人であり、その活動を残す過程において記録者によって記憶違いだったり、それぞれの主観が入りこんだりで、内容に食い違いが出てくるだろうことは想像に難くない。釈迦に至っては釈迦本人が文書化を許さず、暗記によって保持されたのだという。
何を言いたいかというと、人類が言語を使い始めた10万年のうち、文字で記録された5千500年の以前、9万4千5百年分の膨大な人類の記録、記憶は我々の内の潜在意識やDNAとかに残されているのだろうか、それとも永遠に失われてしまったのだろうか。
春のお彼岸にそんなことを考えてみた。

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